● 濱田研吾 ●
創業まもない企業としては、朝日麦酒の民放参入・電波媒体での宣伝活動のスタートは、スムーズにいった。 昭和26年12月のラジオ東京(KR/現・TBS)開局と同時に、いならぶ老舗企業と肩をならべ、スポンサー番組をたてつづけに送り出していく。 それが可能だったのは、朝日麦酒の前身が大日本麦酒という有名企業だったことと、ラジオ東京開局とともに「中央放送広告」を立ち上げた五味正夫の協力があったからである(本連載第12回参照)。
初期の朝日麦酒スポンサー番組としては、平川唯一の『カムカム英語』(KR/S26.12.25~S27.12.26)、『ユーディ・メニューヒン独奏会特別放送』(KR/S26.12.30)、 三木鮎郎の『ほろにがビアホール』(KR/S27.4.5~6.28)、三木鶏郎の『音楽世界地図 アサヒビール・コンサート』(朝日放送/S27.4.6~9.28)、 『白井義男vsダド・マリノ 世界フライ級ボクシングタイトルマッチ実況放送』(KR/S27.5.7)、古川緑波の『ロッパ言語学』(KR/S27.7.6~9.28)などがあった。
このなかで好評だったのが特別番組で、白井義男のタイトルマッチは、いまなお語り草の名勝負として名高い。 NHKの名物スポーツアナ・志村正順は、これだけの一戦を全国放送しなかったNHKの不甲斐なさを、のちに雑誌のインタビューで嘆いた。 それくらい話題沸騰のボクシング中継となり、スポンサーの朝日麦酒は、民放時代を生き抜く自信をそれなりに勝ち得たはずである。
こうした派手で話題性のある特番とは違い、レギュラー番組は地味なものにならざるを得ない。 『ほろにが通信』にレギュラー番組が紹介されているが(*1)、PR誌だけでは訴求力として弱く、いずれも大ヒットというわけにはいかなかった。
だからといって、失敗とはいえない。大阪の朝日放送で放送された『音楽世界地図 アサヒビール・コンサート』は、ラジオの人気スター三木鶏郎(*2)が出演。 本名の繁田裕司の名でDJをつとめ、世界各国の音楽を紹介しながら、「音で聴く世界旅行」というプログラムを実現させた。この番組の台本は、 著書『続・冗談十年』(駿河台書房/昭和29年7月 *3)に収録されていて、鶏郎自身、《わがままなプログラムを許して下さった》と朝日麦酒に謝辞を寄せている。 平川唯一とおなじく、三木鶏郎も五味正夫の友人であり、良き理解者であった。放送期間はみじかくても、出演者の多くが気持ちよく番組を終えただろうし、 それは五味や長谷川遠四郎、業務第一課のメンバーも同じではなかったか。
問題は、古川緑波(*4)が企画、台本、DJのすべてをつとめた『ロッパ言語学』である。
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『ロッパ言語学』は、内容の良し悪し以前に、トラブルに悩まされた番組であった。同番組について、業務第一課の嘱託社員・三國一朗は、 《売り込みに来社したロッパ氏に会い、大気炎を聞かされたことがあるが、それは「ロッパ言語学」という自作自演のものだった。山本為三郎社長が在世のころで、 私が代わって会ったのだが、ロッパはそれを少しも気にせず、重役応接室で長広舌をぶち上げた。企画も台本もホストも「売りこみ」もロッパ一人という迫力に勝てず、アサヒビールは結局この番組のスポンサーになった》 (「わたしの読書日記」初出不明)と書いている。
三國の文章を読むと、単独で緑波に会ったように思えるが、嘱託社員が即決できる話ではない。単独で会ったとすれば、緑波の売り込みを三國が長谷川に伝え、 山本社長、五味、ラジオ東京の了解をとったと考えるのが自然である。公刊された『古川ロッパ昭和日記・戦後篇』(晶文社/昭和63年12月)を読むと、 昭和27年6月10日の記述に《アサヒビールへ此の話を持って行って500万円位出して貰えば、楽な仕事になる》とある。緑波は当初、プロデュース映画『ハワイの伯母さん』の資金集めをしていて、 《アサヒビールは映画のタイアップに乗るかも知れぬ》(16日)、《アサヒビールの『ロッパ言語学』の契約済み、金取れた》(19日)とつづく。映画タイアップの話が、3日後にラジオのタイアップになっているが、 朝日麦酒がいきなり500万も出すとは思えない。「映画は無理だが、ラジオなら」という朝日麦酒の提案があったのだろうか(そうなると三國一朗の証言と食い違うが……)。
ただ、緑波が一面識のない企業に押しかけて、いきなりプレゼンをしたわけではない。両者の関係はそれ以前からあり、『ほろにが通信』第8号(昭和26年5月号)では「AB対談」に登場、 旧知の映画監督である山本嘉次郎と対談している。それに、戦前の大日本麦酒時代から、直営のビヤホールに出かけていたし、東宝映画の監査役だった山本為三郎とは面識があったはずだ。
朝日麦酒は、緑波のスポンサー依頼をどう受けとめたのか。当時の“古川ロッパ”は、喜劇王と謳われた戦前の勢いはないにしろ、まだまだ存在感があった。 朝日麦酒としては、知名度のあるラジオのDJを獲得することになる。しかも、緑波が番組のすべてを仕切るのだから、ラクといえばラクである。
ロッパ日記によれば、番組の収録は6月27日に始まった。契約して1週間ほどなので、異例の早さだが、草創期民放ラジオの切羽つまった番組づくりがうかがえて興味深い。 そして、翌月の7月6日にめでたく第1回放送と相成った。夜9時40分スタートの20分番組で、緑波は放送開始を楽しみにしていたが、新聞に番組広告がなく、日記に不満を書いている(のちに新聞広告が掲載された *5)。
『ロッパ言語学』は、TBSや朝日麦酒の社史、ロッパ日記の出演リストに言及されておらず、音源が残っているとは考えにくい。 幸いにも特別展『古川ロッパとレビュー時代』(早稲田大学演劇博物館/平成19年)で、緑波直筆の台本(*6)を見ることができた。 そこには、《プロフェッサー小言幸兵エは、日本語の複雑さ、むづかしさ、めんどくささについてお話をしよう》と記され、緑波が小言幸兵衛を思わせる物言いで、 言葉の乱れや現代語を斬る内容だったことがわかる。放送直後の日記(7月13日)には、《娯楽ページとしては、辛いには違ひあるまいが、はじめっからの狙ひだからな》とあり、本人が教養娯楽番組を意図したことがうかがえる。
問題はここで起きた。放送から間もなくラジオ東京が、「つまらない。ゴールデン・アワーにしては如何にも淋しい。面白くない。内容にハデにしてほしい。もっと金をかけなさい」とクレームをつけたのである。 ラジオ東京としては、NHKの人気番組『日曜娯楽版』の世相風刺、それも音楽や共演者を多くとりいれた、にぎやかなプログラムが好みだった。 芸界きってのインテリ緑波の、教養あるおしゃべりワンマンショーでは、「地味すぎて、おもしろない」という注文なのである。
番組のすべてを仕切る緑波からすれば、教養娯楽テイストの内容で始めたのだから、一方的なラジオ東京の発言に怒るのは無理もない。 日記には、ラジオ東京編成主査の金貝省三への批判がつづられ、相当頭にきている様子がわかる。 ラジオ東京の番組批判が事実とすれば、放送局の横暴と捉えざるを得ないし、プライドの高い緑波が売られた喧嘩を買ったと考えるのが筋だろう。
当然、スポンサーと代理店は、放送局と演者の板ばさみになってしまう。穏便に済ませたい長谷川や五味の、困惑ぶりが想像できる。 公刊された日記を読むだけで、緑波の偏屈ぶりがわかるので、板ばさみの2人には同情したくなる。
ロッパ日記を読むかぎり、不満の矛先はラジオ東京にあって、五味や朝日麦酒に対しては好意的だった。どちらも自分の味方で、ラジオ東京に共同戦線を張ってくれている、と緑波は思っている。 たしかに、『カムカム英語』といった知的なプログラムを好んだ五味や朝日麦酒からすれば、“ヨーロッパ言語学”をもじった緑波のおしゃべりタイムは、悪いものではなかったはず。 日記には、五味と長谷川が『ロッパ言語学』のテコ入れは必要ないとの見解を示したことが書かれているが、それは理解できる。
結果的に『ロッパ言語学』は、放送から2ヶ月足らずで打ち切り。番組直後のトラブルを思うと、それは当然だったかもしれない。 『五味正夫君のこと』(私家版/昭和34年6月)には、《ロッパの学者的センスを狙った『ロッパ言語学』は失敗に終った》と書き記され、 以後、朝日麦酒と五味がかかわったスポンサー番組のなかに、緑波がメインになっているものはない。
こうして『ロッパ言語学』は、わずかな期間で幕を下ろしてしまった。朝日麦酒が、戦後ラジオ史に名をのこす人気ドラマ『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』のスポンサーとなるのは、それから1週間後のことだった。
(つづく)