連載 ほろにがの群像 朝日麦酒の宣伝文化とその時代

第6回 ビールを愛する人々へのしおり、『ほろにが通信』創刊!

 濱田研吾 

資生堂宣伝史Ⅰ画像

*1 『花椿』昭和25年6月号(『資生堂宣伝史Ⅰ』資生堂/昭和54年7月)

『ほろにが通信』創刊号表紙画像

*2 『ほろにが通信』創刊号表紙

『ほろにが通信』創刊号p3 随筆「愉しいビールの味」画像

*3(部分) 『ほろにが通信』創刊号p3 随筆「愉しいビールの味」

『ほろにが通信』創刊号p5「御高説拝聴・伊藤博文一本参る」築地新喜楽・木村さくさん画像

*4(部分) 『ほろにが通信』創刊号p5「御高説拝聴・伊藤博文一本参る」築地新喜楽・木村さくさん

『ほろにが通信』創刊号p7 漫画「海底の秘宝」根本進画像

*5(部分) 『ほろにが通信』創刊号p7 漫画「海底の秘宝」根本進

『ほろにが通信』創刊号p8 A・B詰連珠(長瀬政吉八段考案)画像

*6 『ほろにが通信』創刊号p8 A・B詰連珠(長瀬政吉八段考案)

『ほろにが通信』創刊の辞画像

*7 『ほろにが通信』創刊の辞

昭和25年10月、朝日麦酒は、PR誌『ほろにが通信』を創刊した。前年9月の創業なので、戦後のまずしい時代のなか、けっこう早くスタートさせたことになる。 奥付に発行日の記載はないが、第2号が11月に出ていることと、月刊誌として創刊していることから、10月創刊とみてまちがいない。

『ほろにが通信』は、ヤフオクに1、2冊ずつ出品されるぐらいで、まとめて手に入れることはむずかしい。 ただ、読むだけなら、神奈川近代文学館というおすすめの施設がある。 第38号(昭和28年10月号)をのぞく全号がバラの状態で所蔵されていて、創刊号も閲覧することができる。大きさはB5判で、創刊号は8ページ・モノクロ、表紙はグラビア印刷。 ていねいにさわらないと破れてしまう紙で、ぜいたくではない素朴な手ざわりがいい。

創刊の経緯について、業務第一課長の長谷川遠四郎と、同課の河井公二は、こう回想している。

《河井:「ほろ通」のヒントはアメリカ土産といってもいい。当時、広告業界で広告の本場アメリカへの視察団が初めて組まれ、森永の稲生さんが団長で行ったのだが、 その土産に「PR」とか「ハウスオーガン」という概念を持ち込んだのです。(略)「PR」の話を聞いて、長谷川さんと相談して「ハウスオーガン」をやろうと決めたんですね。

長谷川:当時広告費は少なかったし、効率をいつも考えにいれていたから、通常の中吊や新聞とは別に「オピニオンリーダーの狙い撃ち」をしよう、というのが前提の話だった。 山為さんもこの企画にはたいへん乗り気で、これにはいろいろと喜んで支援してくれたね。》

アサヒビール宣伝外史 揺籃期の栄光と挫折』(中央アド新社/平成11年3月)

昭和25年当時、ハウスオーガン(社内外向けのコミュニケーション誌)と呼ばれた企業PR誌はまだ数が少なかった。 明治屋の『嗜好』、明治製菓の『スヰート』、寿屋(現・サントリー)の『壽屋商報・発展』など、戦時中に休刊したPR誌は、まだ復刊されていない。 かろうじてこの年、三越の『三越グラフ』が創刊、資生堂の『花椿』が復刊されたぐらいである。

『花椿』の復刊第1号(*1)は、新東宝の新人女優だった香川京子が表紙モデルとなり、評判を呼んだ。 復刊にあたって資生堂は、「流行・服飾・美容の報道を通じて女性の教養を高める」ための公共月刊物であることを強調し、郵政省に第三種郵便物の認可を申請している。

業種は異なるが、『ほろにが通信』も、『花椿』とおなじ趣旨といえた。第三種郵便物の認可を受けるためには、自社のPRではなく、公共月刊物であることを前提にしなければならない。 これにより『花椿』は化粧文化の雑誌となり、『ほろにが通信』はビール文化の雑誌という色あいが濃くなった。 こうしたPR色を排した編集方針は、6年後に創刊される寿屋の『洋酒天国』へと受けつがれることになる。

それでは、記念すべき『ほろにが通信』創刊号の内容をご紹介しよう(※印は筆者名なし)。

表紙(*2)
東京数寄屋橋パレス・清美さん(GSS祭美人コンクールNo.1)
p2、3(*3)
創刊の辞※
ビール教室「美味いビールとは」※
随筆「愉しいビールの味」山田耕筰
『ほろにが通信』創刊号p2、3画像

*p3(全体)  『ほろにが通信』創刊号p2、3

p4、5(*4)
エッセイ「浅草めぐり」※
「御高説拝聴・伊藤博文一本参る」築地新喜楽・木村さくさん
『ほろにが通信』創刊号p4、5画像

*4(全体)  『ほろにが通信』創刊号p4、5

p6、7(*5)
漫画「海底の秘宝」根本進
AB対談「酔っても楽しく」渡辺紳一郎×山本為三郎
ABパズル(B賞入選 東京・中野 宮下修二氏作)
『ほろにが通信』創刊号p6、7画像

*5(全体)  『ほろにが通信』創刊号p6、7

p8(*6)
古今東西※
川柳「ビールの四季」前田雀郎
A・B詰連珠(長瀬政吉八段考案)
『ほろにが通信』創刊号p8画像

*6(全体)  『ほろにが通信』創刊号p8

創刊の辞(*7)は無署名だが、これを読めば、『ほろにが通信』の意図するところがだいたい理解できる。

《これは、ビールを愛し、ビールに趣味を持つ人々に献げる一つのしおりである。(略)人々が幾分でもビールに親しめるようにと、その念願が、この小誌となったのである。 ビールに関する古今の歴史、ビールの科学、ビールの芸術、ビールの学問と人人に強い興味を呼び起さす事柄は余りにも多い。すくない紙幅ではあるが、 これから毎月一回この「ほろにが通信」を御手許まで送って皆さんと共にビールを楽み、ビールを研究してゆきたいと思う。》

誌面をみると、ビールの科学的考察、著名人エッセイ、インタビュー、対談、4コマ漫画、パズルゲーム、囲碁クイズ、川柳など全ページ、ビールのネタであふれている。 すくない誌面に内容をつめこみすぎた感じはするが、終戦から5年、創業から2年の企業がこしらえたPR誌としては、力作と書いていい。以降、休刊する第55号まで、 コーナーの新設やアンケート特集など12ページ立てに増えたが、誌面そのものはあまり変化しなかった。

奥付には「編集発行兼印刷人 長谷川遠四郎」とあり、創刊号は非売品となっている(第三種郵便の認可を受けるのは昭和26年3月号から)。 長谷川が発行責任者をつとめたのは創刊号だけで、河井公二(2~12号)と三國一朗(13~55号)が、そのあとを継いだ。 それとは別に、『婦人朝日』の編集長にして、朝日麦酒の宣伝顧問である飯沢匡が、創刊の立ち上げから編集アドバイザーとなった。

飯沢は具体的に、どういった編集協力をしたのか。ひとつは、編集長をつとめた『アサヒグラフ』編集部がレイアウト協力をしていて、誌面づくりに貢献している。 また、ビールにまつわる小ネタを紹介した「古今東西」は、同誌の名物コラム「玉石集」と似た感じがする。 朝日麦酒草創期の大ヒット広告となる「ABパズル」や「A・B詰連珠」「川柳」のように、読者参加型のコーナーをもうけたのも、飯沢の意向と考えるべきだろう。

もうひとつは、執筆者の顔ぶれ。業務第一課長の長谷川より、飯沢のほうが雑誌づくりの人脈は広い。記事にアイデアを出すだけではなく、漫画家の根本進や、 川柳作家の前田雀郎のように、誌面にふさわしい人材を紹介していることがわかる。『ほろにが通信』にはこのあと、詩人の近藤東、エッセイストの戸川エマ、 工学博士の桶谷繁雄、ドイツ文学者の植田敏郎、漫画家の岡部冬彦、人形作家の川本喜八郎、絵本作家の土方重己らが登場してくるが、いずれも飯沢のお声がかりである。

飯沢だけではなく、山本為三郎も、『ほろにが通信』に欠かせぬ存在だった。とくに、各界の名士をゲストにむかえ、ビール談義に花を咲かせる「AB対談」は、 山本の意向を反映したような顔がならぶ。第1回ゲストは、山本と、朝日新聞記者の渡辺紳一郎。渡辺は当時、NHKラジオ『話の泉』のレギュラー解答者で、 世間では知られたラジオタレントであった。

「AB対談」は、ほぼ毎号掲載され、学者、作家、画家、俳優から、通産大臣の高橋龍太郎、松竹社長の城戸四郎ら政財界の大物まで、 目玉連載にふさわしい錚々たる顔ぶれがそろう。こうした面々があつめられた背景には、山本の財界人としての知名度の高さ、信用の厚さがあった。 飯沢の紹介にくわえ、山本のお墨つきがあれば、著名人をまねくことは容易だったらしい。

創業1年目の朝日麦酒には、潤沢な宣伝費はない。新聞広告や中吊り広告の制作費が必要なので、PR誌にだけコストをかけることはできない。 飯沢の人脈と、山本の政治力に頼らざるを得ない事情があったのである。結果、『ほろにが通信』には、硬軟とりまぜた多彩な顔ぶれがそろい、ページ数はすくないが、中味の濃いものに仕上がった。 そして、山本の顧客リストをつかって配布することで、長谷川のいう《オピニオンリーダーの狙い撃ち》が可能となった。

企業PR誌の発刊そのものは、とくに目新しい広告手法ではない。アサヒビール の関係資料には、「ハウスオーガンの先鞭」「広告文化のさきがけ」などと書かれているが、すこし大げさな感じがする。

 

たとえば、昭和27年に創刊した三洋電機の『サンヨーサイクルニュース』(*8)のように、戦後創業の企業がいち早くPR誌を出した例はほかにもある。 同誌は、『ほろにが通信』とおなじB5判で、自社の商品ニュースが多いものの、杉浦幸雄の漫画「サンヨー夫人」といった読み物ページもあり、同時代のハウスオーガンと位置づけていい。

『サンヨーサイクルニュース』昭和29年1月号画像

*8 『サンヨーサイクルニュース』昭和29年1月号

いっぽうでビール業界にかぎると、『ほろにが通信』は、ライバルの日本麦酒と麒麟麦酒に先んじたPR誌となった。すくない宣伝費のなか、PR誌の発刊に理解をしめした山本の先見の明といえる。 “ほろにが”というネーミングを事実上独占したことも、強みとなった。

山本の真意は、あくまでアサヒブランドのシェア拡大にある。でも、それだけではない。飯沢匡という雑誌のプロをまねき、さまざまな角度からビールの話題を紹介した誌面からは、 国産ビールの需要を高め、業界を活性化させたいとの思いが感じられる。残念ながら、アサヒのシェア拡大には結びつかなかった(本連載第2回参照)が、 山本が目論んだ国産ビールの普及という意味では、『ほろにが通信』は相応の役割を果たすことになる。

いまひとり、『ほろにが通信』のアイドルともいうべき“ほろにが君”の存在を忘れてはならない。チャーミングなバーテンダー姿を、表紙の拡大写真(*9)でご覧いただきたい。 数ある企業キャラクターのなかでも、抜群の完成度をほこる名品だ。この人形は、飯沢に才能を見いだされた川本喜八郎の作で、立体化されたのはこれが初めてだった。

川本喜八郎作・ほろにが君(創刊号表紙拡大)画像

*9 川本喜八郎作・ほろにが君(創刊号表紙拡大)

当初は営業サイドの要望により、バーのホステスが表紙モデルをつとめる予定だった。しかし、ホステスが表紙の顔となることに、飯沢は難色を示したという。 香川京子とくらべるのは酷にしても、たしかに風俗雑誌のような感じは否めない。そこで飯沢は、「ビールの雑誌らしい趣向を加えたい」と提案して、ホステスと一緒にほろにが君がならぶことになった。

飯沢は、『トッパンの人形絵本』(トッパン)のプロデュースや人形芸術プロダクションの創立、NHKのテレビ人形劇『ブーフーウー』の脚本執筆など、人形好きとして知られている。 このときすでに、飯沢の人形狂いが始まっていることがわかる。

創刊号では脇役に徹したほろにが君が、いかにしてメインの表紙モデルへと出世していくのか。その話は、次回にゆずる。

つづく

プロフィール
濱田研吾(はまだ・けんご)
ライター。昭和49年、大阪府交野市生まれ。
日本の放送史・俳優史・広告文化史をおもに探求。
著書に
徳川夢声と出会った』(晶文社)、
『脇役本・ふるほんに読むバイプレーヤーたち(書籍詳細へ)』(右文書院)。
三國一朗の世界・あるマルチ放送タレントの昭和史』(清流出版)。
注記
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