● 濱田研吾 ●
昭和25年から30年まで、『ほろにが通信』(*1)という雑誌が出ていた。朝日麦酒株式会社(現・アサヒビール株式会社)のPR誌である。
『ほろにが通信』の表紙には毎号、おもながの男の子の人形が登場した。朝日麦酒のイメージキャラクターで、名前は「ほろにが君」。顔がビールジョッキ、髪の毛がビールの泡になっている。 「ほろにが」という言葉は当時、朝日麦酒が独占的につかっていたもので、ほかの麦酒会社は遠慮してつかえなかったらしい。
ほろにが君の年齢はわからない。いつもビールを手にしているので、未成年ではないと思う。「ほろにが」というネーミングには似つかわしくない、かわいらしい童顔をしている。
ほろにが君の横にいるのは、ガールフレンドの「三ツ矢嬢」である。彼女は朝日麦酒が取り扱う三ツ矢サイダーのキャラクターであった。 2人はのちに、めでたく結ばれることになるのだが、それはあらためて書くことにする。
『ほろにが通信』は5年間に55冊発行され、大手企業のPR誌としては、やや短命に終わった。 休刊号となる第55号に、朝日麦酒社長の山本為三郎はこう書いている。
《我国に於けるビールの消費量は日を追って増大しつつあり、ビールへの親しみを増すという使命も、今や一アサヒビールより、広く麦酒全体が之を担うべき。》
戦後の混乱が落ち着きをみせたとはいえ、『ほろにが通信』が創刊された当時、国産ビールはまだまだ高嶺の花だった。 国産ビールに親しむ飲料文化を啓蒙しつつ、アサヒビールの名を全国規模で知らしめていく。それが、『ほろにが通信』創刊の目的だった。 そして山本は、その目的をいちおう果たし終えたとして、その休刊を決断する。
わずか5年の歴史ではあったけれど、『ほろにが通信』が生み出したものは少なくない。イメージキャラクターのほろにが君も、そのひとつである。
不二家のペコちゃんやコルゲンコーワのカエルなど、有名な企業キャラクターにくらべると、ほろにが君は知名度が低く、活躍した時期も短かった。 しかし、一時期とはいえ、彼が戦後のビール宣伝文化を牽引した立役者だったことは事実である。
『ほろにが通信』休刊の翌年には、ほろにが君を主演に迎えた画期的なPR人形映画『ビールむかしむかし』も公開されている。 この映画は、日本のアニメーション史、とくにパペットアニメーションの分野では、避けて論じられることのない作品で、いまなお高い評価を得ている。
『ほろにが通信』の編集スタッフにも、そうそうたる顔ぶれが揃った。休刊号には「ほろにがの群像」と題して、雑誌にかかわった人たちの記念写真(*2)が掲載されている。
その顔ぶれは、後列右より、桶谷繁雄(東工大助教授)、松嶋雄一郎(『週刊朝日』副編集長)、山本為三郎、金井敬三(クイズ作家)、三國一朗(朝日麦酒)、 戸川エマ(文化学院教授)、前田雀郎(川柳研究家)、山下強哉(朝日麦酒)、飯沢匡(作家)、長谷川遠四郎(朝日麦酒)、植田敏郎(一橋大教授)、岡部冬彦(漫画家)、 狩野優(写真家)、田島理(朝日麦酒)。前列右より、土方重巳(美術家)、根本進(漫画家)、隅田雄二郎(写真家)、高木四郎(朝日新聞社会部記者)、川本喜八郎(人形作家)。
『ほろにが通信』は、B5判10ページ前後の薄い冊子だったが、それに携わった人たちは、ご覧のとおり薄っぺらなものではない。
山本為三郎は、関西財界の大物として君臨。そのいっぽうで、バーナード・リーチなど民藝運動の作家と交流を持つ文化人としても知られた。 『ほろにが通信』編集長の三國一朗は、のちに放送タレントとなり、マルチな才能を発揮した。戸川エマは、英文学者の戸川秋骨を父にもつエッセイストで、 常連執筆者として記事づくりに貢献した。飯沢匡は、風刺作家として数多くの喜劇を発表しながら、朝日麦酒の広告づくりのアドバイザーとなる。 植田敏郎は、ドイツ文学者で、童話の翻訳家として活躍する。岡部冬彦は、『ベビー・ギャング』など、都会派のタッチの連載漫画で一世を風靡した。 土方重巳は、絵本作家として海外向けの人形絵本を手がけ、数多くの企業ロゴや企業キャラクターもデザインしている。 川本喜八郎は、飯沢匡に才能を見出された人形作家で、いまなお根強いファンをもつ。
しかも、ここにいる人たちは、PR誌づくりにだけ心血を注いだわけではない。花森安治や河野鷹思を招いてポスターや新聞広告をつくったり、アサヒビール愛好家たちによるファンクラブを立ち上げたり、 クラシックコンサートやプロボクシング興行を催すなどの趣向も凝らした。
昭和26年の民間放送局の開局にあたっては、早い段階から番組づくりに参加。『カムカム英語』や『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』など、当時の人気ラジオ番組を世に送り出した。 その2年後に迎えるテレビ放送開始のあとも、大手スポンサーとして名をつらねた。
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筆者は、朝日麦酒の関係者ではない。ただ、ここしばらくのあいだ、三國一朗のことを調べていて、戦後の朝日麦酒の宣伝文化に触れる機会が多かった。
『ほろにが通信』の存在は前から知っていたが、実際にバックナンバーを通読してみて、率直に、かわいい雑誌だと思った。 すぐに破れてしまう粗悪な紙をつかっているからこそ、表紙のほろにが君と三ツ矢嬢がいとおしく感じられる。
日本のビール広告の歴史は、明治時代から今日までつづいているし、ブランドもアサヒだけではない。ビール広告を語るうえでは、わずかな時期に過ぎない。 そんなわずかな時間でも、あれだけの顔ぶれが揃っていた。民放ラジオ、テレビの誕生という、マスメディアの変革期にも深くかかわっている。 そのあたりを解きほぐしていけば、ビールに特化した宣伝文化史が書けるのでは、と思った。
『ほろにが通信』をはじめ、朝日麦酒の宣伝活動については、これまで語られる機会が少なかった。 でも、ほろにが君の、あの上品にしてチャーミングな笑顔を見ていると、 社史だけにとどめておくことが惜しくなってきた。それに、社史に書かれたものは、しょせんは当該企業の視点でしかない。ほかの麦酒会社の動向や、戦後の放送史とからめたいという欲もある。
少しずつ落ち着きを取り戻していく戦後を背景に、国産ビールの普及と、宣伝活動につとめた作家、デザイナー、画家、漫画家、クリエーター、アドマンたち。 ほろにが君に狂言まわしをお願いして、ビール宣伝文化をつくり上げていった人たちの姿をさぐっていきたい。
(つづく)