● 濱田研吾 ●
コピーライターの河田卓は、『ほろにが通信』についてこう書く。《当時を知るある人の話によれば、巷間の評価は圧倒的に高く、それに書いたかどうかで、執筆者の評価が決まったほどだったという》 (『キャッチフレーズ三〇〇〇選』誠文堂新光社/昭和51年3月)。たしかにどんな雑誌でも、そこに登場する顔ぶれの個性や多彩さで、誌面のイメージは決まってしまう。
『ほろにが通信』のばあい、10ページ前後の企業PR誌としては豪華な執筆者(ゲスト)がそろい、しかも、ただ有名人をならべただけではなく、人選そのものにセンスが感じられた。 品を損なわない、華やかな顔ぶれのビールの雑誌。『ほろにが通信』を語るうえで、このキーワードは外せない。
ビールの雑誌らしい記事といえば、まず、エッセイや小説があげられる。テーマはビールか酒場めぐりに決まっていたが、飯沢匡の人脈をいかした執筆者の面々は、一流誌にひけをとらない。 大日本麦酒から分割独立したとはいえ、創業まもない朝日麦酒だけの力では、これだけの顔はならばないだろう。
それぞれの文章を紹介する余裕はないが、書き手とタイトルをながめるだけで、この雑誌が持つ世界観は伝わってくる。 山田耕筰「愉しいビールの味」(1)、永井龍男「銀座酒場めぐり随伴記」(2、3)、西脇順三郎「英國民の生活とビール」(4)、徳川夢声「想麦酒恋」(4)、 秋田實「ビールとユーモア」(5)、奥野信太郎「渋谷のみ歩る記」(7)、村上元三「わたしのビール」(12)、近藤東「京都のみ歩き」(12)、玉川一郎「ビールのペーソス」(18)、 野口久光「ビールの杯から生れる幻想のバレー映画」(18)、城昌幸「ビールミステリー・夏の日の恋」(22)、伊藤晴雨「ビールが人を殺した話」(24)、水谷準「ビールコント・河童のチャルメラ」(25)、 安藤鶴夫「吾妻橋歳月」(27)、東郷青児「パナッシェの味」(35)、岡本太郎「偉大なるいやったらしさ」(36)、梅崎春生「ほろにが東京散歩」(37)、米川正夫「欧州麦酒遍歴」(42)、 式場隆三郎「夏のない湖水の国」(47)、植田敏郎の連載エッセイ(41~55)など、ラインナップはなかなかシブい(カッコ内は掲載号)。
惜しむらくは、ここにあげた文章のほとんどが、単行本になっていないことだ。文章がまとめられたのは、植田敏郎の2冊の著書『ビール巡礼』(白水社/昭和29年7月/*1)と 『ほろにが随筆』(河出新書/昭和31年7月/*2)しかない。これでは、少しさびしい。永井、奥野、梅崎の酒場エッセイなど、編集の仕方によっては魅力あるアンソロジーが編めるのではないか。
PR誌のアンソロジー本としては、明治製菓の『スヰート』掲載の文章が、『甘味(お菓子随筆)』(双雅房/昭和16年2月/*3)として1冊にまとまっている。 それをまねて『苦味(ビール随筆)』として編んだら、おもしろいと思うのだが……。
『あまカラ』(甘辛社)のアンソロジー『あまから随筆』(河出新書/昭和31年2月/*4)や、全3巻の『アンソロジー洋酒天国』(TBSブリタニカ/昭和59年)のようにするのも一案か。
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『ほろにが通信』のイメージを高め、雑誌への信用度をより深めたものとしては、「AB対談」は無視できない連載だった。 これは、A氏とB氏によるビールトークで、タイトルはアサヒビールの頭文字をもじっている。ゲストの職業によって、テーマがさだまっている場合もあるが、その多くはビールを肴にした気ままなおしゃべり。 PR色をできるだけ排する編集方針のため、アサヒビールをほめるような発言は、意識的にはずされていた。
毎号数ページの誌面を割いた「AB対談」には、山本為三郎の財界での顔の広さ、飯沢の人選の巧みさがあいまって、多彩なA氏とB氏が登場した。 本稿の巻末にリストを載せたが、各界の著名人や一流の学者の名がならび、“品”と“格”、いずれも遜色はない。 謝礼は安く、ときにはビールの現物支給がおこなわれたらしいが、クレームはすくなかったという(鶴屋八幡がスポンサーの『あまカラ』のように、謝礼が現物支給の戦後のPR誌は、ほかにもあった)。
「AB対談」を読んでみると、じっくり読ませるには文字量がすくなく、ビール文化について論じるようなむずかしい内容ではない。 奇のてらわないおしゃべりに終始していて、軽い読み物になっている。それだけに読者の支持は高く、第34号(昭和28年6月号)の「愛読者アンケート結果発表」では、人気連載の第1位に輝いた。
もちろん、他愛のないビールのおしゃべりだけでは、魅力がない。そこで「AB対談」では、ホスト役のインタビュアーを用いず、連載対談のスタイルをとらなかった。 これにより顔ぶれはつねにかわり、組み合わせの妙がたのしめる。
たとえば、第52号(昭和29年12月号)では、平野威馬雄と三遊亭金馬の顔合わせがユニーク(*5)。 どういう人選意図かと思いきや、ウマ年最後の掲載号なので、名前に“馬”がつくふたりを呼んできた……だけのこと。しかも、お互いに親交があるわけでもなく、 仏文学者の平野がインタビュアーとなり、金馬(3代目)がまじめに受け答えする様子がおかしい。
第13号(昭和26年9月号)では、岡本太郎と杉村春子の組み合わせが実現した(*6)。 強烈なオーラを放つ両者のトークは、岡本の飲みっぷりを見た杉村が《あら、岡本さんのお飲みになる形、いいわね》と賞賛するところから始まり、 岡本がパリで目撃したビールを飲む少年の話、花柳章太郎の酒酔い演技、女優としての色気へと話が膨らんでいく。 それでいて、互いの分野に踏み込んで論じあうほどの専門性はなく、ビールを飲みながらの世間話に終始している。それが逆にいい。
もうひとつの魅力として、わずかな行数のなかにゲストの語り口を再現し、その人柄をそのまま伝えた構成のうまさがある。 速記と構成は、すでに30年のキャリアを持っていた秋山節義(*7)が担当した。秋山は、国会の速記者から朝日新聞社へ転じた人物で、 『週刊朝日』の徳川夢声対談「問答有用」などを手がけた、対談の構成をおこなうことも多く、秋山が「AB対談」を担当したのは当然、飯沢匡の推薦によるものだろう。
秋山の速記のたしかさ、構成のうまさは、第34号(昭和28年6月号)の「AB対談」によくあらわれている。ゲストは、安藤鶴夫と桂文楽(*8)。 この粋人ふたりが、浅草界隈のうなぎ、そば、どじょうの名店をめぐりながらハシゴ酒をたのしみ、同時進行でトークがすすむ。そのなかに、安藤のこんな発言があった。
《死んだ小さんがね、上野の鈴本の、前ッ側のたべもの横町ね、あそこのトンカツ屋へとびこんでね、立ったままビールを1本きゅうと引かけて、塩をね、ちょッいとこうつまんでね、そいで帰ってった。 よかったね、あれは。鮮やかなもんだったね、あののみッぷりは》
実際には、ここまで流暢にしゃべることはむずかしい。それを、その場を想起させるように活字化したところに、秋山の速記と構成のうまさがある。 事実、鬼の編集長として知られた扇谷正造が、《速記の天才だった。正確無比、仕上げが完ぺき》(『辰野隆随想全集5』月報)と書いたほどである。 飯沢にしろ、秋山にしろ、『ほろにが通信』はよきスタッフにめぐまれた雑誌だった。
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企業PR誌には、クライアントが自己規制しすぎたあまり、企画や記事に過剰なチェックを入れる悪しき習慣がある(とくに編集を外部に発注しているばあい)。 でも、『ほろにが通信』には、そうした心配がない。エッセイにしろ、「AB対談」にしろ、読者を飽きさせない工夫が施されていたし、 飯沢匡や業務第一課長の長谷川遠四郎の了解さえあれば、あとは自由に編集することができた。「AB対談」がもし、別セクションのゴリ押し、 山本為三郎をホスト役とする連載対談になっていたら、どうだろうか。先述したようなバラエティーの豊かさは生まれなかったはずだ。
いまでも多くの企業PR誌が出されているが、著名人ほど相応のギャラを要求してくるし、間違ってもビールのつめあわせでは済まされない。 『ほろにが通信』は、企業、代理店、所属事務所、所属団体がのんびりしていた時代の産物、といえるかもしれない。
(つづく)