連載 ほろにがの群像 朝日麦酒の宣伝文化とその時代

第10回 はじめまして、私、ほろにが君の彼女の三ツ矢嬢です

 濱田研吾 

三ツ矢サイダーのカーボンケース(昭和20年代)画像

*2 三ツ矢サイダーのカーボンケース(昭和20年代)

『ほろにが通信』第9号表紙 画像

*3 『ほろにが通信』第9号表紙

『ほろにが通信』第22号表紙 画像

*5 『ほろにが通信』第22号表紙

朝日麦酒暑中見舞いハガキ(昭和27年) 画像

*6 朝日麦酒暑中見舞いハガキ(昭和27年)

「三ツ矢嬢の夏仕度」(*部分)『ほろにが通信』第46号(拡大)画像

*7b 「三ツ矢嬢の夏仕度」(*部分)『ほろにが通信』第46号(拡大)

『ほろにが通信』第55号・特集扉(*部分)画像

*9 『ほろにが通信』第55号・特集扉(*部分)

『ほろにが通信』第55号表紙画像 画像

*10 『ほろにが通信』第55号表紙

サイダーキャラクター 画像

*11 土方重巳が描いた三ツ矢サイダーキャラクター(昭和30年代/『土方重巳・造形の世界』造形社/昭和53年4月)

サイダー坊や人形 画像

*12 サイダー坊や人形。デザインは土方重巳(昭和44年/『広告キャラクター人形館』ちくま文庫/平成7年12月)

三ツ矢サイダーポスター 画像

*13 三ツ矢サイダーポスター。モデルは芦川いづみ(昭和30年代)

朝日麦酒の主力商品としては「アサヒビール」のほかに、 「バャリースオレンヂ」と「三ツ矢サイダー」があった。 とくに後者は、ルーツとなる「三ツ矢平野水」から数えて100年以上の歴史をもつブランドとして名高い。

サイダーとラムネは、戦前から人気の高い炭酸水だったが、なかでも三ツ矢サイダーは高級なイメージがあった。 三ツ矢サイダーが日常的に飲めたのは、“富裕層のおぼっちゃま”といえるかもしれない。男爵の家に生まれ、グルメ家として知られた古川緑波も、 《金線サイダーも、リボンシトロンも、子供の頃からよく飲んだ。が、やっぱり一番勢力のあったのは、三ツ矢サイダーだろう》(『悲食記』学風書院/昭和33年7月)と書いている。

大日本麦酒のブランドだった三ツ矢サイダーは、分離独立を機に、朝日麦酒のブランドとなった。 東日本でのアサヒビールの知名度は低かったが、三ツ矢サイダーは比較的全国規模で知られ、高級品として認知されている。 当時はまだ、コカコーラが日本で発売されておらず、三ツ矢サイダーは品薄になるほどの支持をあつめていた。

そのため朝日麦酒としては、三ツ矢サイダーではなく、知名度の低いアサヒビールの宣伝を優先する必要があった。 それについて業務第一課長の長谷川遠四郎は、《広告も必然的にビールに傾倒せざるを得なくて、三ツ矢には気の毒なことをした》と語っている。 当時の中吊り広告(*1)には「おとなはアサヒビール、こどもは三ツ矢サイダー」とあるが、訴求力のあった三ツ矢サイダーのブランドに、アサヒビールが甘えるかたちとなっている。

朝日麦酒中吊り広告(昭和20年代)画像

*1 朝日麦酒中吊り広告(昭和20年代)

ほろにが君と『ほろにが通信』は、アサヒビールを売るためにつくられたもので、三ツ矢サイダーとバャリースオレンヂは関係がない。 ただ、それではもったいないと考えたのか、昭和26年に三ツ矢サイダーのキャラクターが誕生する。名づけて「三ツ矢嬢」(*2)。 ほろにが君がおぼっちゃま風なのに対し、金髪の三ツ矢嬢は良家のお嬢様っぽさがあった。

三ツ矢嬢には、謎が多い。『アサヒビール宣伝外史』や社史『Asahi100』では言及されておらず、ほろにが君にくらべるとキャラクターグッズはすくない。 三ツ矢サイダーの広告量が制限されたぶん、三ツ矢嬢の活躍の場は多くなかった。

三ツ矢嬢が初めてお目見えしたのは、『ほろにが通信』の第9号(昭和26年6月号)。 バレリーナ姿で表紙(*3)に登場し、同号のコラム「清涼飲料水の話」に《6月のそよかぜに乗ってお目見得したこれなる女性は、当社の清涼飲料三ツ矢サイダーの精であります。 誕生早々でまだ名前がございません。どなたか御命名くださいませんか》と紹介された(三ツ矢嬢の具体的な命名時期は不明)。

本連載の第6回で書いたとおり、『ほろにが通信』の表紙は、第5号よりほろにが君がメインモデルをつとめていた。 しかし、ほろにが君がメインモデルの表紙を見ると、いつもひとりで旅に出たり、ハイキングに出かけたりしていて、すこし淋しそうな感じがする。

それを見た飯沢匡が、「ほろにが君に彼女をつくってやろう」と提案したのか、長谷川課長が「三ツ矢サイダーのキャラクターをつくってほしい」と頼んだのか、 なんらかの発案があって三ツ矢嬢が誕生する。彼女をデザインしたのは土方重巳で、ほろにが君に続いて川本喜八郎が人形化した。

三ツ矢サイダーやバャリースオレンヂを買って、子どもに飲ませるのは、大人である。もちろん、大人が飲むことも考えられる。 そこで『ほろにが通信』には、わずかだが、サイダーやオレンジジュースに関する記事を載せた。だから、三ツ矢嬢が表紙に出てきても、おかしくはない。

飯沢にとっても『ほろにが通信』の表紙は、子どもが親しめるメルヘンチックなもの、そして、ビールが自然にとけこむ日常的な素朴さのあるものに仕上げたかったはずである。 そうしたいきさつがあったのか、第10号(*4)の表紙より、ほろにが君と三ツ矢嬢がカップルで登場するスタイルになった。これが、雑誌の魅力をよりいっそう深めることになる。

『ほろにが通信』第10号表紙 画像

*4 『ほろにが通信』第10号表紙

表紙では毎号、季節感やさまざまな遊びをテーマとし、ふたりが日常を楽しむ様子が描かれた。 クルージング、登山、雪遊び、ひなまつり、桜のお花見、吾妻橋の夜デート、隅田川花火大会の見物、キャンプ、渓流釣り、アイススケート、 ガーデニング、ゴルフ、海水浴、フェッシング、テニス、乗馬、ジャズコンサート、ピクニック、朝顔の栽培、トランプゲーム、宇宙旅行、『ほろにが通信』の編集、クリスマスのお買い物などなど、 いつも仲がよさそうでほほえましい。実のところ、ふたりが交際しているという設定はないのだが、これらの表紙を見るかぎり、恋人同士にあることは疑いようがない。

“顔がビールジョッキの男の子”が、“ごくフツーの女の子”と付き合うのは風変わりな設定だが、それが魅力的に思えるのは、 土方の構成の巧みさ、川本の人形作家としての腕の高さであろう。ふたりはいつも仲よく、愛くるしい姿を見せ、構成をつとめた土方の創意工夫もあって飽きさせない。

個人的には、第22号(昭和27年9月号)の表紙(*5)がお気に入りだ。買い物帰りに雨が降りだし、寄り添って相合傘で歩いている。 手には、アサヒビールと三ツ矢サイダーを持ち、商店街には銭湯や酒屋が建ちならぶ(小道具や背景のディテールがこまかい)。 三ツ矢嬢はほろにが君の腕につかまり、恥ずかしそうに甘えていて、すでに同棲している雰囲気が漂う。

毎号、趣向のちがう表紙づくりは大変だった。第26号(昭和27年10月号)掲載の「表紙写真の出来るまで」を見ると、スタッフの苦労と手のこんだ製作過程がよくわかる。 編集者として表紙づくりにこだわる飯沢も参加し、これが結果的に土方や川本の修業の場となった。

いっぽうで表紙はモノクロ印刷が基本なので(特別号はカラー表紙)、せっかくの色合いが表現されていない。 そこで業務第一課は、表紙をそのままカラーでいかして、中吊り広告やポストカードに使った。昭和27年の暑中見舞いハガキ(*6)はそのひとつで、 屋形船から隅田川の花火大会をたのしむ図柄は、第23号(昭和27年7月号)の表紙から流用された。モノクロの表紙といえども、作品そのものはカラー印刷に耐えうるレベルだった。

三ツ矢嬢の評判は良く、第46号(昭和29年6月号)では読者のリクエストにこたえ、川本の監修によるペーパークラフト「三ツ矢嬢の夏仕度」(*7)を掲載。 また、テレビCMでほろにが君と共演したり、ちゃぶ台を囲んで夕餉を楽しむシーンが中吊り広告(*8)になったりもした。 このころの広告は、ほろにが君ひとりではなく、三ツ矢嬢とのカップル主演が多く目立つ。三ツ矢嬢が、三ツ矢サイダー限定のキャラクターではなかったことがよくわかる。

「三ツ矢嬢の夏仕度」(*部分)『ほろにが通信』第46号 画像

*7 「三ツ矢嬢の夏仕度」(*部分)『ほろにが通信』第46号

中吊り広告「小瓶アサヒビール」(昭和28年)画像

*8 中吊り広告「小瓶アサヒビール」(昭和28年)

そして、むかえた第55号(昭和30年6月号)。ほろにが君と三ツ矢嬢は別れることもなく、『ほろにが通信』の休刊を見届ける。 表紙づくりのスタッフは、そんなふたりに最高の花道を用意した。結婚である。1ページには、ウエディングドレス姿の三ツ矢嬢と、彼女をエスコートするほろにが君の姿が(*9)。 表紙には、列車のデッキから手を振り、新婚旅行にむかう様子が描かれた(*10)。つくり手の愛情にあふれた終幕であり、数年におよぶ“大河絵本”の完結のようにも思える。

その後、昭和30年代なかばになると、ほろにが君は姿を消していく。その後を追うように、三ツ矢嬢もいなくなってしまった。 そのかわりとして、土方重巳デザインの新キャラクター(*11、12)が生まれ、若手女優がキャンペーンガールをつとめるようになった。 日活の人気女優だった芦川いづみのポスター(*13)は、初期のキャンギャルの代表例であろう。こうした若手女優による広告は現在、 新垣結衣の三ツ矢学園シリーズへと受け継がれている。

ほろにが君と三ツ矢嬢。甘酸っぱく、さわやかなふたりが姿を消して、はや半世紀以上がたつ。

つづく

プロフィール
濱田研吾(はまだ・けんご)
ライター。昭和49年、大阪府交野市生まれ。
日本の放送史・俳優史・広告文化史をおもに探求。
著書に
徳川夢声と出会った』(晶文社)、
『脇役本・ふるほんに読むバイプレーヤーたち(書籍詳細へ)』(右文書院)。
三國一朗の世界・あるマルチ放送タレントの昭和史』(清流出版)。
注記
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