● 濱田研吾 ●
昭和41年2月に朝日麦酒社長の山本為三郎が亡くなったとき、新聞・雑誌に多くの追悼文が出た。 そのひとつに、『文藝春秋』4月号に掲載された飯沢匡(*1)のエッセイ「リッチな人・山本為三郎氏のライフマスク」がある。 飯沢は、朝日麦酒の宣伝顧問として働いたことを回想し、《大いに趣味と実益を兼ねたアルバイトをさせて頂いた》と書いている。
この一節からは、文化人に理解のある山本が、飯沢に自由にアイデアを出させたことがわかる。 この2人の出会いのきっかけをつくったのが、宣伝部門の束ね役となる業務第一課長・長谷川遠四郎だった。
長谷川にとって飯沢は、武蔵高校での先輩にあたるが、学業に専念しない飯沢が2年留年して、2人は同級生になってしまう(のちに飯沢は放校)。 そののち飯沢は朝日新聞記者として仙台支局で勤務し、長谷川は東北大学の学生となる。 仙台で再会した2人は、同じアパートで下宿するほど、親交をふかめる間柄となった。
また、昭和23年に大日本麦酒に入社し、のちに長谷川の直属の部下となる河井公二は、飯沢の甥っ子であった。その縁で河井は、昔から長谷川と面識があった。 こうして朝日麦酒の業務第一課のなかに、飯沢・長谷川・河井という友人・血縁グループが生まれることになる。
新聞記者と劇作家、2足のわらじを履いていた飯沢は、戦後になって『アサヒグラフ』(朝日新聞社)の副編集長となる。 そして昭和23年、『婦人朝日』の編集長へと転属した。
後輩の長谷川が、宣伝のアイデアを募るため相談にやってきたのは、そのすこしあと。朝日麦酒の創業まもない昭和24年秋から翌年の暮にかけてで、相談を受けた飯沢はそれを了承した。 そのうえで長谷川が、飯沢を山本為三郎に紹介し、山本から正式に宣伝顧問を依頼されたと推察できる。
この件について飯沢は、自伝『権力と笑のはざ間で』(青土社/昭和62年6月)のなかで、 「朝日麦酒の山本為三郎社長から宣伝雑誌の編集を頼まれた」と書いていて、長谷川に頼まれたとの記述は見あたらない。
余談だが、『権力と笑のはざ間で』のなかに、東京・新橋にあった「リオン」という飲み屋の話が出てくる。 この店は、旧新橋の芸妓(長谷川の上司のお気に入りだった)がいとなむ店で、長谷川が飯沢をそこへ連れていった。
「リオン」には、向笠幸子という女性が働いていて、のちに彼女は新橋に自分の店をオープン。飯沢が「トントン」と命名する(池田弥三郎の命名との説もあり)。 これが、山口瞳、戸板康二、十返肇、向田邦子らが常連に名をつらねる文人酒場、バー「トントン」となっていくのである。
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朝日麦酒にまねかれた飯沢は、さっそくあるアイデアを出した。読売新聞への広告出稿である。長谷川の証言によれば、小さいサイズの広告にして、出稿回数をふやすように飯沢の提案があったという。 この広告企画にたいしては、読売新聞からの協力を得ることができた。
こうして、朝日麦酒にとって初の広告となる「ほろにが人生」がスタートする。記念すべき第1回は、昭和25年4月1日付け夕刊の2面(*2)に掲載された。 新聞1段・10行分にすぎないミニサイズで、《明日から此の欄で/アサヒビールが/皆様におくる/?/御期待下さい》という予告編になっている。
「ほろにが人生」は、ビールとは関係のないジョーク集で、くわしくは図版(*3)を見ていただきたい。コピーは基本的に匿名だが、中村順という投稿作家の名がある回もあり、何人かの執筆者がいたようだ。 「集会禁止」「ストの教訓」「古橋広之進の世界記録」など、世相やニュース性に富んだネタが多いのは、この広告の特徴といえる。
それぞれのコピーはたのしいが、なにより「ほろにが人生」というタイトルが秀逸で、ビールの広告にぴったり(イギリス人作家のノエル・カワードに『ほろにが人生』なる作品があり、それを参考にしたのだろうか?)。 また、アサヒブランドを浸透させるため、「朝日麦酒提供」ではなく、「アサヒビール提供」と記載されていた。
注目すべきは、タイトルに添えられたイラストで、これこそ、朝日麦酒草創期のイメージキャラクター「ほろにが君」その人。「ほろにが人生」のスタートと同時に、ほろにが君は誕生した。
河井公二によると、ほろにが君をデザインしたのは、業務第一課のデザイナー・後藤庸男だったという。そのデザインをのちに、絵本作家の土方重己がアレンジして、人形作家の川本喜八郎が人形にした。 「ほろにが人生」のほろにが君と、『ほろにが通信』のほろにが君をくらべると、たしかにすこし顔が異なっている(ほろにが君と命名されたのは「ほろ通」が創刊されたあとで、「ほろにが人生」のときには、まだ名前はなかった)。
「ほろにが人生」は、週に5~6日のペースで1年間掲載され、昭和26年3月30日付け夕刊をもって終止符をうった。このときのコピーがおもしろい。
《明日、あたしと貴方の記念日ね/へえ?なんの?/結婚のよ/なん年目だっけ?/イチネンメよツ!》
「ほろにが人生」が、ほぼ1年前から始まっていることに、かけているのである。
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シリーズ広告「ほろにが人生」には、先行する企画があった。飯沢が副編集長時代の『アサヒグラフ』に掲載された「玉石集」。 古今東西の偉人、芸術家にまつわるエピソードを、みじかい読み物に仕立て、諷刺とユーモアをこめたコラムだ。
コラムは匿名だが、詩人の矢野目源一を中心に、近藤東、岩佐東一郎、のちに朝日新聞記者となる高木四郎、それに飯沢らが執筆に参加した。 飯沢は、古川緑波の「声帯模写」からヒントを得た「文体模写」を寄せ、泉鏡花や武者小路実篤の文体をまねた文章を書いている。
「玉石集」は評判をよび、のちに単行本(*4)が刊行された。また、「玉石集」での人脈をいかしたグループ「J・J・J」を立ち上げ、NHKラジオ『日曜娯楽版』の台本づくりに参加した。
飯沢は、すぐれた雑誌編集者だった。川本喜八郎やデザイナーの伊藤憲治といった逸材を発掘し、雑誌づくりに参加させた先見の明。 「玉石集」で見せた知的なユーモア。そして、グラビア特集「原爆被害の初公開」(『アサヒグラフ』昭和27年8月6日号)を世に出した反骨精神。 こうした編集センスは、「ほろにが人生」から半年後、『ほろにが通信』の創刊に発揮された。
少ない予算で、効果的な広告をつくる。“ほろにが”という抜群のネーミングと、“ほろにが君”というビール会社ならではのキャラクター。名編集者であり、名プランナーである飯沢の面目躍如といったところか。
しかし、朝日麦酒の宣伝活動に参加したのは、飯沢ひとりではない。宣伝スタイルを確立していく業務第一課のメンバーとともに、 飯沢の仲間というべき編集者、記者、作家、詩人、漫画家、画家、文化人たちがそこに参集していく(本連載の第1回参照)。
さらに、いまひとり、飯沢が朝日麦酒にまねいた才人がいた。花森安治。『暮しの手帖』(暮しの手帖社)の編集長である。
(つづく)