● 濱田研吾 ●
銀座1丁目の老舗レストラン「つばめグリル」が、ビルの建て替えにより、 2年間の長期休業に入った。名物のアイスバイン(豚のスネ肉の煮込み)を肴に、ビールを飲むのが好きな筆者としては、 ふたたびオープンする日がまちどおしい(ちなみに銀座には支店がある)。
銀座でビールときたら、もうひとつ、すてきなお店がある。銀座7丁目にあるビヤホール「銀座ライオン・銀座七丁目店」。 昭和9年に開店した老舗のビヤホールで、外観はすっかり改修されてしまったが、内装はすばらしい。 フランク・ロイド・ライトの手法をならった柱、壮麗なモザイク壁画、ビールの泡をイメージした照明などなど。 「モボ・モガがいるような……」との表現は陳腐だが、こういう雰囲気でお酒が飲める店は、東京でもそう多くない。
このビヤホールは、東京では知られたグルメスポットだが、ここが、朝日麦酒の創業時の社屋(事務所)だったことは、あまり知られていない。
もともとこのビルは、大日本麦酒の本社事務所として建てられた。設計したのは、旧新橋演舞場や駒沢大学図書館を手がけた菅原栄蔵。 当時の大日本麦酒社長・馬越恭平から設計を依頼されたもので、鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上6階、地下1階建て。 昭和9年4月の竣工とともに、1階のビヤホールがオープンした。竣工まもない時期の外観(*1)と現在の外観(*2)をくらべると、ビル右上にそびえる塔など、いくつかの共通点が見てとれる。
大日本麦酒は昭和24年9月、朝日麦酒と日本麦酒に分割・独立された(本連載の第2回参照)。 そこで両社は、しばらくのあいだ社屋を共有し、1階のビヤホールはGHQに接収された(昭和26年接収解除)。 その後、ビヤホールは日本麦酒(現・サッポロビール)の直営となり、建物はすべて同社の管轄となった。 現在は、銀座ライオンビルとして、各階すべてにサッポロ系列の飲食店が入っている。
いっぽうの朝日麦酒は、昭和27年に京橋3丁目の第一生命相互館へと社屋(事務所)を移転させた。 辰野金吾が手がけた第一生命相互館は取り壊されたが、アサヒビールはいまもここに東京統括支社をおいている。
『ほろにが通信』の奥付をみると、創刊号(昭和25年10月)から第26号(27年10月)までの発行所は「中央区銀座7の1」、 第27号(27年11月)から第55号(30年6月)までは「中央区京橋3の1」となっている(なぜか第28、31号のみ発行所が銀座になっている)。 『ほろにが通信』の銀座時代は、およそ2年間ということになる。
では、いまの銀座ライオンビルのどこに、『ほろにが通信』編集部があったのか。社史『Asahi100』(アサヒビール/平成2年8月)や編集長だった三國一朗の証言をかさねると、 5階が営業部、総務部、工務部、秘書課、社長室、6階が人事部、経理部のフロアだったらしい(三國は、ある会食でたまたまこのビルをおとずれ、かつての職場であったことを思い出したという)
ちなみに、『ほろにが通信』編集部と先に書いたが、じつのところ編集部や宣伝部といったセクションは存在しない。 5階にあった営業部業務第一課が、「ほろ通」の発行をふくめた、同社の宣伝活動をフォローしていた。 つまりここが、朝日麦酒草創期の宣伝の前線基地であり、戦後広告史をいろどる舞台だったことになる。
現在この階は、生演奏がたのしめる「音楽ビヤプラザライオン(ぐるなび東京版)」になっていて、食事をすれば誰でも見学できる。 写真(*3)を見るかぎり、内装は戦前の面影をのこしていて、柱から天井にかけてのデザインは昭和モダンの香りがする(近いうちに出かけてみたい)。
業務第一課のセクションを束ねていたのは、課長の長谷川遠四郎(*4)だった。朝日麦酒の宣伝の責任者、いまでいう宣伝部長の役割といえる。 長谷川は、昭和11年に大日本麦酒に入社。上海駐在をへて、戦後は酒類配給公団に籍を置いていた。 その長谷川を、朝日麦酒の社長になってまもない山本為三郎が、宣伝の責任者に抜擢したのである。
長谷川の談話によれば、当時35歳の長谷川を呼びつけた山本が、「なにがやりたい?」とまず訊ねた。そこで長谷川は、上海駐在の経験をかんがえ「輸出などどうでしょうか」と答えた。 しかし山本からは、「業務課をやりたまえ」と命じられてしまった。
山本がなぜ、長谷川に宣伝の仕事をやらしたのか。それはわからない。ただ、創業した朝日麦酒には、「アサヒビール」ブランドの知名度の低さという問題があった。 「アサヒビール」は明治25年、大阪麦酒時代に誕生した由緒あるレーベルで、大阪での知名度は高い。でも、東京ではあまり知られていない。 そこで山本は、アサヒブランドのPRこそ急務だと考え、長谷川に白羽の矢を立てた。社命をうけた本人は、そのことに困惑した。
《最初はとにかく五里霧中だったよ。特に「広告」については、戦前戦後の十数年は、モノは配給されても「買ってくれ」と広告などする時代ではなかったから、全く知識がない》 (『アサヒビール宣伝外史 揺籃期の栄光と挫折』中央アド新社/平成11年3月)
長谷川はもともと、広告畑の人間ではない。 たとえば、山名文夫の自伝『体験的デザイン史』(ダヴィッド社/昭和51年2月)を読むと、 戦前、戦中に活躍したさまざまな広告人と出会えるが、そこに長谷川の名はない。戦後という節目にデビューした、新進気鋭のフレッシュアドマンということになる。
しかし、宣伝のイロハをおしえてくれる先輩はいない。後藤庸男という先輩デザイナーはいたが、デザインとマーケティングは別物である。 創業したてのビールメーカーの宣伝責任者という重責を担って、途方にくれるのも無理はない。
そこで思い出したのが、武蔵高校の先輩であり、のちに落第して長谷川の同級生となる劇作家・飯沢匡の存在だった。
(つづく)