● 濱田研吾 ●
花森安治と大橋鎭子が『暮しの手帖』を創刊したのは昭和23年。他社の広告やタイアップページがないことで知られる雑誌だが、編集長の花森は、広告が嫌いなわけではなかった。 東大卒業後、伊東胡蝶園(現・パピリオ)で広告を手がけ、戦時中は大政翼賛会で手腕を発揮し、『暮しの手帖』創刊後は、自社の広告づくりにこだわった。 宣伝についての見識を持ち、広告が好きだからこそ、センスの悪い他社の広告で雑誌を汚されたくなかったらしい。
それを知る飯沢匡が、「花森さんに、ビールの宣伝の相談をしてみたら?」と業務第一課長の長谷川遠四郎にアドバイスしたのは納得がいく。そのときのことを、長谷川はこう証言する。
《いろいろ話し合ってヒントを得ているうちに「花森安治」さんを紹介された。昭和24年の暮ころだったと思う。 (略)こっちが相談に行っているのに、逆にグラビアページのモデルにさせられちゃったことがあるよ》(『アサヒビール宣伝外史 揺籃期の栄光と挫折』中央アド新社/平成11年3月)
飯沢(明治42年生)と花森(明治44年生)は同世代で、花森が『暮しの手帖』を創刊した年に、飯沢は『婦人朝日』の編集長になった。 婦人雑誌の編集長として、お互いに意識しないはずがない。2人はとくに親しい関係ではないので、のちに『週刊朝日』編集長となる扇谷正造が引き合わせたのだろう(花森と扇谷は友人同士、 飯沢と扇谷は同じ朝日新聞社の人間だった)。
飯沢が宣伝顧問にいるかぎり、花森が朝日麦酒の宣伝方針に口出しするとは考えにくい。 長谷川が期待したのは、具体的な広告づくりのアイデア、「アサヒビールの広告をつくってほしい」という直接的なものだったように思える。
ここで気になるのが、長谷川の《モデルにさせられちゃった》発言だ。『暮しの手帖』のバックナンバーをあさると、 昭和25年秋の第8号(*1)に、タオル地や浴衣地で上衣をつくる記事があり、2人の男性がモデルになっている。 クレジットはないが、1人が長谷川、もう1人が部下の河井公二と推測できる。
なぜ、朝日麦酒の社員が、会社と関係のないページのモデルになったのか。 おそらく花森は、相談にやってきた長谷川をつかまえて、「そっちが頼むのなら、こっちも手伝ってくれ」とモデルを頼んだのだろう。断りきれない長谷川と河井は、意のままにモデルとなった。 本連載の第3回に紹介した長谷川の写真が、『暮しの手帖』に載っていた理由は、 ここにある(ただし長谷川は、昭和24年の暮に花森に相談したと言っているので、雑誌の刊行時期とはかなりずれている)。
ここで、河井がモデルになった写真(*2)を見ていただきたい。足元に、アサヒビールが3本置いてあるのがおわかりだろうか。 露骨なタイアップページではなく、かなり細かく見ないと、どこのブランドかわからない。花森の好意にせよ、長谷川が「商品を出したい」とゴネたにせよ、ほんの遊び心のつもりだったのだろう。
長谷川は、《モデルにさせられちゃった》と言っているが、自社の商品を小道具につかったことには触れていない。 花森に会いにいくとき、なぜ、アサヒビールの瓶を持参したのか。 名刺がわりの差し入れだったのか。はなから仕事を頼むつもりで商品を持参したのか。疑問はのこるが、花森と長谷川に面識があったことは、これで、はっきりした。
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朝日麦酒と縁のできた花森は、まず、広告効果の高い電車の中吊り広告をデザインした。 その第1作が、昭和24年12月の「なつかしい商標が復活しました」。コピー、レイアウト、手書きの文字、すべてが花森の作とされている。
つづいて手がけたのが、昭和25年の「ビールといえば吾妻橋」(*3)。「ビールといえばアサヒ」ではなく、「吾妻橋」であるところが、この広告のミソだ。
隅田川にかかる吾妻橋のたもとには、朝日麦酒の吾妻橋工場とビヤホールがあった。大日本麦酒時代からあるこの施設は、浅草のランドマーク的な存在であった。 たとえば、日活映画『東京の人 前後篇』(昭和31年)を見ると、出版社の元社長であるホームレス(滝沢修)と、社長を慕ってやまない元部下(新珠三千代)がそぞろ歩くシーンに、 吾妻橋工場がしっかりと映りこむ。見る人が見れば、そこが隅田川ぞいであることがわかる。 桑原甲子雄の写真集『東京 1934~1993』(新潮社/平成7年9月)にも、工場を写した作品がおさめられている。 東京の人にとっては、戦前からなじみのある風景といっていい。
そこで朝日麦酒は、中吊り広告のコピーとイラストに吾妻橋を登場させ、東京の人に親しんでもらう仕かけをつくった。 このアイデアは花森ではなく、アサヒブランドを関東圏で浸透させたい社内の意見だった。 これが結果的に、創業まもない時代を代表する広告となり、花森の「ビールといえば吾妻橋」は、朝日麦酒初のキャッチコピーとなる(*4)。
すぐれていたのは、コピーだけではない。赤・白・黒の3色刷りのデザインが、ひときわ目立った。 印刷博物館で開催中(2008年4~7月)の「デザイナー誕生:1950年代日本のグラフィック」では、 花森の中吊り広告が展示されているが、実際に見ると「アサヒビール」の赤いロゴが、戦後まもない電車内でインパクトを与えたことを感じさせる。 これは、コストのかかるフルカラー印刷を用いず、3色でより効果的なデザインをねらったためである。
花森の中吊り広告は評判がよく、おなじデザインで新聞広告が出された。 「ビールといえば吾妻橋」のコピーについて長谷川は、《『暮しの手帖』のモデル料のかわりだった》と言っているが、 花森はそれ以上のものを朝日麦酒に提供したことになる(これが縁で、社長の山本為三郎との親交をふかめた)。
いっぽうで、不評だった中吊り広告(*5)もあった。描かれたビール瓶にへんな横縞が入っていて、支店長会議の席上、「いもむしみたいだ」と揶揄されたという(たしかに、動き出しそうなビール瓶ではある)。 コピーの「一番うまい アサヒビール」も、あまり新味は感じられない。
その後、朝日麦酒の広告は、河野鷹思、横山隆一、朝日麦酒の小倉得宇(のちの漫画家・オグラトクー)らが手がけ、花森が描くことはなくなる。 “いもむし風ビール瓶”のせい……ではなく、花森ひとりに任せるべきではないとの意見があったのかもしれない。
それから花森は、アートディレクターとして、朝日麦酒の広告づくりに参加していく。東宝の新人女優だった岡田茉莉子を起用したポスター(昭和28年)には、「構成・花森安治」のクレジットがあり、モデルの岡田をディレクションするために招かれたことがわかる。
このポスター、骨董屋で売られているのを見たことがある。岡田茉莉子が買い物から帰るシチュエーションで、 買い物カゴにアサヒビールや三ツ矢サイダーが入っている。 エプロン姿の岡田の笑顔と、抜けるような青空。日常の平和を感じさせる、涼しげな作品だった。
(つづく)